先日キリスト教保育を行う保育園並びに認定こども園の新任保育士研修がありました。私もキリスト教や聖書の入門的な講義を受け持っているので行って参りました。キリスト教保育というのは、保育の中で礼拝したり、お祈りをすることだけではありません。花の日やクリスマスなどのキリスト教的な行事を行うことでもありません。私たち保育者が子どもたちに向き合う時に、その向き合ったひとりを本当に大切に思い、愛しているかということを自らに問い、イエス・キリストや聖書の御言葉を土台として、保育することです。
とかく私たち人間は、愛したいと思う人を愛するものです。でも、キリストは「あなたの隣人を愛しなさい」と私たちに教えてくださいました。隣人(となりびと)とは誰のことでしょう。愛すべき、あるいは愛したい人なら思い浮かびます。夫、妻、子どもたちをはじめとした家族、友人、同僚、先輩、後輩、上司、部下、恩師・・・「上司?愚痴しかないわ!」とうちの職員たちが思ってなければいいけど(苦笑)。
いろんな人を「隣人」として思い浮かべるのですが、文字通りに理解するなら、隣にいる(いた)人はみんな隣人です。つまり、隣人とは特定の誰かではなく、全ての人が隣人ということになります。キリストは、全ての人を愛しなさいと命じたのです。
いやいや、そんなん無理ですって!と思ってしまいます。そうなんです、全ての人を愛するのはとても難しいことです。でも、自分自身ならどうでしょう。全員から愛されるとは思わなかったとしても、嫌われようとも思わないものです。少なくとも、「この人にだけは」愛されたいと思うものですし、私が大切にしていることや考え方は尊重して欲しいと思うのです。矛盾ですよね。
そんな矛盾や葛藤の中で、本田哲郎さんという神父さんが「愛するというのは大事にするということ」とおっしゃったのを聞きました。なるほど、みんなのことを「大事にする」と考えるなら、それならできるかもしれないと思ったのです。
生き方や考え方は人ぞれぞれ。価値観も人ぞれぞれ。常識だと思うことさえ、人それぞれです。全てのことを受け入れるということではなく、その人は今そう考えているんだね、というその人の思いや生き方を尊重することは、誰にでもできることです。その先は、関係性の中で考え、必要に応じて関わっていければ良いのです。
私たちの保育の原点はまさにそこにあるのだと考えます。十人十色の子どもたちを一人ひとり大事にするという姿勢で関わっていくこと、それを私たちは目指さねばなりません。もちろん、それらはすでにできたと言えることではないし、できているわけでもありません。でも、気付かされた時に、この原点に立ち返って自分を見直すことができる、そういう土台が与えられていることは、私たちにとって幸いなことなのだと改めて思うのです。
園長:新井純